挫折から全国展開へ――清田英輝が語る「反骨心」で築いた組織論

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福祉への夢と、現実との折り合い

清田英輝氏の原点は、幼い頃の家庭環境にある。母子家庭に育ち、祖父母に支えられた日々の中で、自然と「いつかおじいちゃんおばあちゃんのためになることがしたい」という思いが芽生えていた。漠然とした憧れではなく、育ててくれた人への具体的な恩返しとして、福祉の世界を志していた。

しかし、理想と現実の間には厚い壁があった。福祉施設を持つにも、ボランティア活動を継続するにも、土台となる資金が必要だ。想いだけでは動かせない世界がある。「お金がないと、何もできない」——そう痛感した清田英輝氏が冷静に目を向けたのは、自分が誰よりも得意としていた営業という武器だった。

「まずお金を会社に貯めて、そこから福祉へ」。遠回りに見えるかもしれない。しかし清田英輝氏にとって、それは最も誠実な答えだった。社会貢献の前に、まず自分が立てる場所を作る。夢に向かって走るための、現実的な第一歩だった。

間借りのオフィスから始まった挑戦

最初の一歩は、決して華やかなものではなかった。元上司の会社の一角を間借りし、数名の仲間とともに立ち上げたのは、インターネット回線の切り替えを提案するテレマーケティング事業だった。会社の登記こそ済ませたものの、自前の事務所はない。他の会社の人たちが忙しく働くオフィスの片隅に、4席ほどのスペースをもらい、そこで自分たちだけの朝礼を開き、自分たちだけの営業に出かけた。

起業したての頃というのは、マンションの一室すら借りられるかどうかわからないことも珍しくない。そんな中でオフィスの場所を提供してくれた元上司の存在は、清田英輝氏にとって何物にも代えがたい支えだった。人とのつながり、縁の大切さを、清田英輝氏は創業期の記憶とともに今も深く感謝している。

傍から見れば、みすぼらしい出発かもしれない。しかし清田英輝氏の記憶の中に、苦しさはあまりない。「今思えば大変でしたけど、当時は楽しかった。やりたいことができてるし」——その実感が、どんな不安よりも強かった。不自由な環境の中にいながら、清田英輝氏の気持ちはずっと前を向いていた。

事業を安定させるため、テレマーケティングと並行して携帯電話のイベント販売も業務委託という形で同時進行させた。「一本だと怖い」という現実的な判断で、通信業を軸に二本の柱を立てる。堅実に、しかし着実に、足場を固めていった。

転機は、商業施設の片隅で訪れた

25歳から26歳にかけての頃、縁あってある商業施設での携帯電話販売に踏み出すことになった。それまでの業務委託という形ではなく、1台契約いくらという直接形式での参入だった。「商業施設でちょっとやってみないか」——そんな話がひょっこり舞い込んできたのがきっかけだった。

おそるおそる入ってみたその商圏が、今思えば飛び抜けて良い場所だった。現在もそこがグループの収益を支える柱のひとつになっているほど、重要な拠点となっている。

売上が伸びるにつれ、清田英輝氏は自らテレマーケティングの現場から離れ、携帯電話販売の最前線に立つようになった。1〜2年ほどで、事業の軸は完全に携帯へとシフトしていく。テレマーケティングだけの時期は月商3000万円ほどだったが、携帯販売を本格化させてからは売上が一気に跳ね上がっていった。

この成功の背景には、テレマーケティングで磨き抜いた「声だけで信頼を勝ち取る」技術があった。顔も表情も見えない相手に、言葉だけで心を開いてもらう。テレアポというのは、対面のプレッシャーはない代わりに、声だけでコミュニケーションを取り、声だけで相手の懐に入り込むトークが求められる。20代前半のほぼすべてをその訓練に費やしてきたからこそ、いざ対面の場に立ったとき、笑顔や雰囲気、豊かなコミュニケーションという武器をそのまま上乗せできた。

「相手が見えない声だけで契約を取れるなら、笑顔を見せられる対面は余裕でしょう」——その自信は、根拠のある自信だった。下積みがあったから、結果が出た。清田英輝氏はそう確信していた。

さらに、自分たちのスタイルは来店客を待って案内するだけの携帯ショップとは根本的に違った。買い物に来たお客さんに自ら声をかけ、主体的に営業をしかける。それが自分たちの会社の強みだという自負があった。教育にも力を注ぎ、チームとしての営業力を磨き続けた結果、「こっちの店舗でもやってくれ」「あっちでもお願いしたい」と声がかかり始め、店舗は全国へと広がっていった。

組織の形も変わっていった。最初は友人・知人を採用していたメンバーが、中途採用へとシフトし、会社としての体裁を整えていく。そして、起業の出発点にあった福祉事業への扉も、少しずつ開き始めた。通信事業で培った力が、ついに夢の入り口へとつながっていった。

「ちゃんとした人は、あんまりいなかった」

拡大する組織に集まって来たのは、どんな人材だったか。清田英輝氏は、笑いながら正直に話す。 「朝起きれませんとか、お酒飲んだら暴れちゃうとか、正直多くいました。僕も含めて」

世間的には「社会不適合者」と見られかねない若者たち。一般的な会社であれば、採用の段階で弾かれてしまうような人材ばかりだったかもしれない。しかし清田英輝氏は、それを問題とは思わなかった。なぜなら、自分自身も14歳で挫折を経験し、そこから営業で這い上がってきた人間だったからだ。ハンディを抱えた若者の気持ちが、誰よりもわかった。

「環境があれば、人は変われる」——その言葉を体現するような出来事がある。かつて「絶対に正社員にはならない」と清田英輝氏の前で堂々と宣言していたアルバイトの青年がいた。「そうですか」と受け流しながら、清田英輝氏はその青年を見続けた。10年後、その青年は正社員となり、携帯事業のトップとして会社全体を引っ張る役員にまで成長していた。

自分にレッテルを貼ってしまう若者は、今の時代とりわけ多い。「大学に行けなかったから正社員になれない」「転職に一度失敗したからもうダメだ」——そうやって自分で可能性を狭めてしまう。SNSが普及した今では、外からも心ない言葉が飛んでくる。目立てば目立つほど、批判も増える。それはYouTuberだろうが起業家だろうが変わらない。そういった言葉に晒されながら、「自分にはできない」と思い込んでしまう若者が後を絶たない。

でも、変えられるのは環境と考え方だ。清田英輝氏はそう信じ続けた。自分自身も常にモチベーションを上げながら、メンバーと「一緒に育っていく」感覚で向き合ってきた。社会的なハンディを抱えた若者が、営業という舞台で自信ややる気を取り戻し、見違えるように成長していく。その姿こそが、清田英輝氏にとっての最大の報酬だった。

「昭和の会社に勝ちたい」——反骨心が、チームを束ねた

初期のチームを動かしていたのは、シンプルな感情だった。「昭和の会社に、俺たちは勝てる」——難しい理念も、整った戦略も要らない。その一点で、みんながつながっていた。

清田英輝氏自身は、もともと営業が好きだった。同世代の友人と比べても、際立って珍しいタイプだったと振り返る。しかし集まってきたメンバーの多くは、営業が得意でも好きでもなかった。それでも、「勝ちたい」という反骨心だけは共有できた。その負けん気が、チームの燃料になった。楽しくやれていたからこそ、その熱量はお客さんにも伝わった。

清田英輝氏自身が毎日現場の先頭に立ち、「おれの背中を見ろ、行くぞ」と旗を振り続けた。経営者というよりも、誰よりも前のめりな一営業マンとして、飲み会も含めてチームと時間を共にした。最初の5年間、清田英輝はずっとそうやって走り続けた。

その5年間で、会社は目を見張る速さで成長した。挫折を知る人間が、同じく傷を持つ仲間たちと組んで、既存の秩序に真正面からぶつかっていった。それが、最初の急成長の正体だった。

しかし、順調に見えた5年間の先には、また新たな壁が待ち構えていた——。

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